正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十一

 岩波文庫98ページ「入室瀉缾(にっしつしゃびょう)の衆(しゅ)たとひおほしといへども、提婆と斉肩(せいけん)ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆会(しゅえ)の導師なり、全座の分座なり。正法眼蔵無上大法(しょうぼうげんぞうむじょうだいほう)を正伝(しょうでん)せること、霊山(りょうぜん)に摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)の座元(ざげん)なりしがごとし」
 ここは、迦那提婆尊者が龍樹尊者の教えをきっちりと受け継いだということを述べておられるところ。
 入室瀉缾というのは、師の部屋に入り、器から器へ水をすっかり移すことだそうだ。つまり、教えを受け継いだということ。そういう人は、たとえ多いとは言っても、迦那提婆尊者と肩を並べられることはできない。迦那提婆尊者は「半座の尊」であり、人々を導くことのできる人である。「半座の尊」というのは、釈尊霊鷲山(りょうじゅせん)において、第一祖摩訶迦葉尊者に席を半分譲って座らせた(法を継がせた)ことに例えている。席の全てを分け与えることと同じである。釈尊の教えの重要なこと、最高の教えを正しく伝えられていることは、霊鷲山摩訶迦葉尊者が釈尊の第一座であったのと同じである。
 迦那提婆尊者が正当な仏教を伝えている人である、ということを強調されている。この後も、同じ記述が続く。
 経典は膨大にあり、怪しげな「教祖」もごまんといる。そもそも、仏教とは何かすらはっきりしていないんじゃないか。色々な宗派があるけれど、どれが正当な仏教なのかの議論は、おそらく色々事情もあって避けているんだろう。
 仏教に限らず、まともに議論するというのは至難の技。仕事でも、正当な結論ってこれ?ということも珍しくないのではないか。
 それではいけないと思うが、地球上を見渡しても、きちんとした議論ってあるのだろうか?武力、経済力等々の「力」が働いているように思える。そして、これが、今の人類の現実だろう。武力、経済力なしに、国際的に何かを決められには人類は至っていないんじゃないか?
 変えなければいけない。しかし、今の現実をしっかりつかんで、少しずつ具体的な行動を積み重ねるしかない。もっともらしい理想論を叫んで、何かやっているような気になっても、仕方がない。具体策なしの抽象論には食傷気味というのが正直なところ。
 どうすればよいかは坐禅が教えてくれる。
 なお、道元禅師は、仏教は釈尊から1つしか伝わっておらず、従って○○宗、△△宗などと呼称するのは誤りだとされている。