2019-01-01から1年間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十三

さて「体感」した私はどうなったか。 さすがに会社も音をあげた、呆れ果てたのか、出向して3年ほどで異動になった。出世では勿論なく、左遷とも言えない微妙なものだった。私は特に感じるものはなかった。まあ、こういうもんだろう。 事業はその2年後継続が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十二

その「直感」(言葉では言い表せないので、このように書かせていただく)のあと、私はどうしたか。 それを書く前に、澤木興道氏の提唱の中に「最上のなかに最上なる仏法は、いくら修行しても全く無反応の坐禅のことである」という記述があって、「あれ?自分は…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十一

何となく感覚、感じが変わってきた。 それから3か月くらい経った頃だったろうか、朝いつものように坐禅していたときだった。ふっと「自分は正しい。しかし今状況を変えることはできない」と思い浮かんだ、のではないな、何と言えばいいのだろう、思うとか自…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十

何かが変わったような感じ、感覚。うまく表現できないが、2つばかり書いてみようと思う。 坐禅して、怒り、憤激、憎しみ、悲しみがあふれ出てきて、慌てて坐禅に戻るのを繰り返していることに変わりはない。 けれど、その中で、感じたこと。ただし、坐禅し…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその九

坐禅をしても状況を打破するアイディアが浮かぶことはない、環境も変わらない。でも坐禅は続けていた。 澤木興道氏の提唱に菩提達磨尊者のところに二祖慧可大師が入門をお願いしたときのことが書いてある。菩提達磨尊者が慧可大師に「入門して何が欲しいか」…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその八

澤木興道氏の辦道話の提唱を読みながら、毎朝5分から30分(短い方が多いけど)坐禅を続けた。相変わらず頭の中には怒り、悔しさ、憎しみ、展望の無さなどが渦巻き、「いかんいかん」と坐禅に戻り、戻った瞬間再び渦に巻き込まれ、体が動いたり、叫んだりもして…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその七

澤木興道全集のうちの辦道話が載っている巻だけ買って読み始めた。読むと言っても仕事は相変わらず激務でまとまった時間は取れない。朝晩の通勤電車の中が主な読む時間だった。 澤木興道氏は魅力的な人だと思った(ちょっと読んだだけで僭越だけど)。以下、印…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその六

大量の便が出て、気分は良くなった。 けど、それだけ。それだけでもありがたいと思うのは、正直無理だった。 状況は変わらず、というより悪化していった。私に対する周囲の対応も辛辣さを増していった。 「坐禅したらうんこ出ました」これでもいいのかもしれ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその五

坐禅のやり方だけ斜め読みして、坐禅してみたが、何も変わらなかった。1日だけで、パッと上手くいくものではなかろうが、もう少し何かあるかなという期待はあった。けど、何もなかった。 ただ、坐禅は続けてみよう、正法眼蔵は読みたいという気持ちはあった…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその四

よく坐禅をすると無の境地というが、私は全く違った。幸い購入した「坐禅のやり方」に妄想が沸いてもまた坐禅に戻ればよいとされていたので、無にならないとかでは悩まなかった。 ただ、毎回怒りに震えていていいのかなと不安にはなった。 その日(初めて坐禅…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその三

三十ページほどの「坐禅のやり方」を通読する余裕もなく、ただ坐り方だけ読んで坐禅をやろうとした。 まず知らなかったこと。坐禅は平らな座布団の上でやるのではないこと。知らなかった。坐蒲とかいうものにお尻を載せお尻を持ち上げ、両膝とお尻の三点で支…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってから その二

岩波文庫の第一巻冒頭の辦道話をちょっと眺めた程度だが、坐禅しようと思った私は本屋に行った。坐禅のやり方が分からなかったからだ。 私の職場の環境は厳しく、辛いことに変わりはなく正法眼蔵を読む時間も限られているし、坐禅のやり方が書いてある本もで…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその一

さて、岩波文庫の正法眼蔵四巻全部買って、家で第一巻を開いてみた。 まず、辦道話(べんどうわ)から始まっている。脚注によると、辦道とは「真実に生きる修行に力をつくすこと」とあった。「真実に生きる」というのは私の思いと一致するのだが「修行に力をつ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取るまでのことその四

般若心経の本に落胆。そのとき頭に浮かんだのは、ここにはたくさんの本が並んでいる。しかし、書いた人間は、人生をどう生きたらよいか、死ぬような経験があって書いたのだろうか?寺に生まれて坊さんになって、ちょっと書くのが得意で書いているんじゃない…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取るまでのことその三 

正しさとは何なのか、正しさが何故通用しないのか。この問題を解決できないか、その思いで書店に向かった。 哲学書のコーナーに行こうかと思ったが、あくまで私のイメージなので恐縮だが、哲学は学者が頭の中で考えているものと思え、今の私の状況の解決には…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取るまでのことそのニ

この事業は上手くいかない、成り立たないという報告をした。私は、単純と言えば単純で、こんな明確なことは、普通の職業人が読めばすぐに理解されると思っていた。 ところが、社内、出向元の両方から厄介者扱いされることになってしまった。今ならパワハラだ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手にとるまでのこと その一

これまで書いてきたように、宗教には無縁というよりは、否定的で、危ないから近づかないようにしていた私が何故、正法眼蔵を手にとったのか、タイトルに記したように正法眼蔵がなければ死んでいた、と思うようになったのか。その経緯(いきさつ)を書くことに…

正法眼蔵がなければ死んでいた 仏教の思い出その二

前回は、小学校低学年の頃の話だったが、今回は大学生の頃の思い出。 ある友人(とはいっても、私は親しみも感じていなかったし向こうが勝手に近寄ってきたので、その時点で胡散臭いといえば胡散臭い)が「いい先生がいる。話を聞いておいて損はない。絶対役に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 仏教の思い出その一

前回、キリスト教の思い出を書いたので、今回は仏教についての思い出を書くことにしたい。 まだ、小学校低学年の頃に祖母が死んだ。当時は、今のように葬祭場で葬式をするのではなく、自宅で葬式というのが普通だった。そのときのこと。 坊さんが読経も終わ…

正法眼蔵がなければ死んでいた まずは私と宗教との思い出

初めてブログを始める。何だかよく分からないし、不安だけれど、書いてみたいという気持ちが強く、思い切って始めることにした。 道元禅師の正法眼蔵と私の関わりを書いていきたいと思う。正法眼蔵がなければ死んでいたと心底思っている。正法眼蔵を初めて手…