2019-01-01から1年間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案手その九

本題から外れるが、道路に空き缶が捨ててあった。近くの自販機のゴミ箱に持っていって捨てた。道にゴミを捨てて平気な国民がいる国は下等な国だと思う。ちょっとした山の中に「ゴミの不法投棄はやめろ」という看板を見ることもよくある。こういうことをする…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その八

仏教を勉強する(修行する)のは、まず発心(ほっしん)つまり真実を知りたいという強い願いが必須だ。その上で、優れた指導者(善知識(ぜんちしき))に従って修行せよ、と道元禅師はおっしゃっている。私は、繰り返し書いているが、対人恐怖気味で、人間…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その七

岩波文庫54ページ「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己を諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏(しょうぶつ)なり、仏を証しもてゆく」 大宇宙の真理を体得した人=仏は、自分が仏だという感覚はない。「俺は仏だぞ」なんてことはない。だけ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その六

岩波文庫54ページ「自己をはこびて万法(ばんぽう)を修証(しゅしょう)するを迷(めい)とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」 前回書いたことと重なるところもあると思うけど読んでやってください。 前半は、この世の真実、真理を知りたい、わ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その五

「しかもかくのごとくなりといへども、華(はな)は愛惜(あいじゃく)にちり、艸(くさ)は棄嫌(きけん)におふるのみなり」西嶋氏はこれを道諦の立場とされている。 頭の中で理想をあれこれ考える、客観的に世の中は物質の集まりと考える、人間は一所懸命…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その四 

「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」 ここの「豊倹より跳出せるゆゑに」が難しい。西嶋氏は、ここは滅諦の立場とされている。つまり、行動の世界。西嶋氏は「行動の立場というのは一所懸命の世界、無我夢中の世界」なので…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その三

岩波文庫53ページ。「万法ともにわれにあらざる時節」ここは西嶋氏のいう「集諦」の立場。集諦は客観的、唯物論的立場だそうだ。 事実関係を客観的にみるというのは重要だと身に染みている。一方で客観的に事実関係を把握することの難しさも身に染みている。…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案そのニ

本文冒頭から混乱する。岩波文庫53ページ。全文を書くと長くなるので、私なりに抜き出す。まず「諸法(しょほう)の仏法なる時節(中略)生(しょう)あり、死あり」とあり、次に「万法(ばんぽう)ともにわれにあらざる時節(中略)生(しょう)なく滅なし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その一

まず「現成公案(げんじょうこうあん)」とは何か?から始めたい。岩波文庫53ページの水野弥穂子氏の脚注では「現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること」とある。仏教を学術的に学んだ人、宗門の人なら理解できるのかもし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話そのニ十一

辦道話は1231年道元禅師が宋の国から帰国してから4年後に書かれたものだそうだ。道元禅師31歳。31歳でこのようなものが書けるというのは物凄いことだと思う。また、既成の仏教教団を痛烈に批判もしている。すごい意思だと思う。道元禅師にとって真の仏教を伝…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その二十

今、世界は地球上の人々は何を目指そうとしているのか、と思う。結局は国益であり、個人の利益の獲得ではないかと感じる。もちろん、利益は大事だと思う。西嶋氏も、利益をあげられない会社は社会から評価されていない(商品やサービスが評価されていない)…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十九

頭の中で色々考えが渦巻いて、あるいは、あーでもないこーでもないと頭の中でこねくり回しているうちに、現実と頭の中の光景が区別できなくなってしまうという人が結構多いのではないか。私の周囲にも、事実関係は明白なのに、全く違う光景を見ているとしか…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話十八

仏教の修行は出家して艱難辛苦に耐えられる選ばれし人がやるもの、そういう人しかできないみたいな見方が多いように思う。でも、それでは普通の人は仏教の修行ができず救われないことになってしまう。それでは意味がないと私は思う。 厳しい修行に耐えた人が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十七

岩波文庫36ページ「いまだ戒(かい)を受けず、また戒をやぶれるもの、その分(ぶん)なきにあらず」ここは、戒律を守ることが清らかな人生を送るために必要という文章に続くところ。仏門(ぶつもん)に入るためには、受戒(じゅかい)という儀式が必要とさ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十六」

岩波文庫33ページ「かの霊性(れいしょう)(筆者注:身の中にあるもの=心)は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにむまるゝゆゑに、ここに滅するとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見(けん)、かくのごと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十五

岩波文庫31ページ「むかしの人師(にんし)、この法(坐禅)をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり」ここのところは、中国には古くから仏教経典が伝えられ、仏教が伝えられているのに、何故菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に渡り坐禅を伝え…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十四

岩波文庫28ページ「仏法には、修証(しゅしょう)これ一等なり。今も証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、」29ページ「修(しゅ)の証(しょう)なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」仏法は修行と真理を体得すること(あまり使いたくないが…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十三 

岩波文庫26ページ「代々(だいだい)の緒祖(しょそ)、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家(ぞくけ)は、実をしらず、ひたゝけて坐禅宗といひき。」代々の真実を得た人達はみんな坐禅を熱心にやった。これを見た愚かな世俗の人々は、真実を知ら…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十二

岩波文庫24ページ「又しるべし、われらはもとより無上菩提(むじょうぼだい)かけたるにあらず」 人間にはもともと最高の真実真理が備わっている、と西嶋氏は提唱している。私もそうだと思う。。 けれど坐禅(修行)しないと、本来備わっているものが現れない、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十一

岩波文庫21ページ「経書(きょうしょ)をひらくことは、ほとけ頓漸(とんぜん)修行の儀則ををしへけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしむるとなり」 お経は修行の仕方を教えているもので、それに従って修行(坐禅しながら)すれば真実…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十

岩波文庫20ページ「諸仏の境界(きょうがい)は不可思議なり。心識(しんしき)のおよぶべきにあらず」21ページ「不信の人は、たとひをしうともうくべきことかたし」 20ページのところは、真実に達した人々の状態は考えることができない。人間の感情や意…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その九

岩波文庫18ページ「わづかに一人一時の坐禅といへども、諸法とあひ冥(みょう)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界(むじんほうかい)のなかに、去来現(こらいげん)に、常恒(じょうごう)の仏化道事(ぶつけどうじ)をなすなり」 ひとりの一時の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その八

岩波文庫17ページ「静中(じょうちゅう)の無造作にして直証(じきしょう)なる」ただ静かに坐禅していることで直接分かる、体験できるという意味と思っている。 前回、私の思う「悟り」について書いてみたが、ここを読むと私は私の思うところでいいのだと思…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その七

岩波文庫15ページと16ページ。15ページ「打坐して身心脱落(しんじんだつらく)することを得よ」16ページ「本来面目(ほんらいのめんもく)現(げん)ずるとき」 まず身心脱落。引用したところは「坐禅して身心脱落を得なさい」ということでいいと思う。問題は「身…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その六

「自狂にゑうて」について補足したい。 坐禅し始めた頃、頭の中に私を攻撃する人間の顔や声、白眼視や無視の姿、それに対する私の憤激などの感情、これらにより坐禅しながら体が動いたり、叫びそうになったと書いた。 もし、その姿を他人が見ていたら、坐わ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その五  

また、岩波文庫13ページ。「いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解(しょうげ)をおほひ、むなしく自狂(じきょつ)にゑうて、ひさしく迷郷(めいきょう)にしづまん」 間違った指導者に惑わされて、正しい理解ができなくなって、自分は正しいと勘違いして(…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その四

同じく岩波文庫13ページ。「おのづから名利(みょうり)にかゝはらず、道念(どうねん)をさきとせん真実の参学」 名誉、名声、世間の評価を求めず、真実の仏道、仏教を求めるということらしい。 「真実」って何なんだろうか。私が「間違っている」と主張…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その三

今回は岩波文庫の13ページ。「弘通(ぐづう)のこゝろを放下(ほうげ)せむ激揚(げきよう)のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄(うんゆうひょうき)して」のところ。 弘通とは仏道が行き渡ることで、そのことが達成されて(放下)仏教が盛んになる(激揚)のと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その二

辦道話について書いていきたい。まずお断りしておくが、私は現代語訳や全文解釈はしない。そんな力もない。ただ正法眼蔵の中で私の印象に残った、語句、フレーズについて自分の経験、感覚、思いを書くだけ。正法眼蔵について全体を知りたい方は、文献にあた…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その一

今回から、正法眼蔵について私が感じたこと、経験に照らして思うことを書いていきたい。 まずは、辦道話(べんどうわ)だが、その前にお断りしておきたいことがある。 第一に、最初の頃にも書いたが、私は曹洞宗には一切関係ない。また、仏教を学問として勉…